至高のラブ・ストーリーを久々に読んだ気がした。
「私の愛、ナムジュン・パイク」 久保田成子著 平凡社
男と女が愛し合い、ある事情から子供は出来なかったが、世界の美術シーンに衝撃を与える作品の数々を遺した。
数年前、韓国の国立現代美術館でテレビ1003台を積み上げたビデオ・アートを見上げた。
それが現代アートの記念碑的作品であることも知らず、作者への関心も抱かなかったが、ナムジュン・パイクの名前は頭の隅に刻み込まれていた。
韓国最大の実業家白楽承の息子として生まれ、朝鮮戦争を避けて日本へ留学、東京大学教養学部へ入学。
大学からは「君の成績だったら法学科や経済学科にも行けるのに、なんで金にもならない美学科に行くんだ」 と諭されたほどの秀才。
数学や物理学が得意で、先端機器を開発し新しい映像を創造、
「何か一つのことに没頭し始めると、誰も止められないほど驚くべき集中力を発揮したのだが、ビデオ・アートに関心を持ってテレビという機械に深入りし始めてからわずか2年にして、ナムジュンは自分が開発した技術について特許を申請するまでになった。」
たいていの場合、数学的な頭が発達していたら、文系の方が疎かになりがちだが、ナムジュンは韓国語、日本語、ドイツ語、英語、フランス語、中国語を話すことができた。
読書欲は熱狂的というレベルで、何処に行くにも本を手離さず、東洋の古典から専門的な経済学の文献まであらゆる本を読みまくった。
作品作りのためにテレビを数百台も購入するために、家計はいつも火の車だった。
しかしナムジュンは金銭感覚がゼロ、芸術のために生涯を捧げる彼にとって、結婚すら眼中になかった。
久保田成子は新潟の教員の家に生まれ、幼い時から美術に才能を発揮。
高校2年の時、二紀展に入選、天才美術少女として脚光を浴びるが、家庭に反抗、退屈なまでに平和な新潟での生活に飽き飽きして上京。
東京教育大の彫塑科を選んだのは、日本の画壇には有名な女流画家が多くいて、
「女流彫刻家は珍しかったので、この分野であれば女性作家というプレミア付き、比較的容易に頭角を現すことができるだろうと信じていた」
つまり彼女にとって生きることは戦いであり、勝つためには戦略を練る人間であった。
1963年、前衛芸術家としてドイツで活躍していたナムジュンが来日、その公演を見た成子は一目惚れし、自身に誓った。
「この男は絶対に逃がさない、そのためには私も有名なアーティストになって、この男を掴まえるんだ。」
ニューヨーク近代美術館 (MoMA) に14点の作品が所蔵されるまでに成功をおさめる成子。
一方のナムジュンはビデオと芸術を合体させて、名実共に現代アートの巨匠となっていく。
若いエネルギーはあったが貧しかったアーティストの二人が、故国から遠く離れて異国の地をさ迷い歩き、どのようにしてアートシーンの険しい山の登頂を果たしたのか。
破天荒な生き方しか出来ない運命を持った二人が出会い、愛し合い、遺した永遠の作品。
ちょうど良いタイミングで4月中旬にニューヨークへ行く。
今度は二人が40年暮らした街と作品を、しっかり眼に焼き付けて来ようと思う。
1960年代、ニューヨークで活躍していたオノ・ヨーコ、草間弥生に負けず劣らず活躍していた久保田成子だが、これまで影が薄かったのはナムジュンを支えるために自身を犠牲にせざるを得なかったからだ。
その存在はアメリカのアートシーンが評価している。
ナムジュン・パイクと久保田成子、愛の結晶ともいえる本書は、韓国で出版された話題作。
共著者の南禎金高が数年かけてインタビューしたというだけあって、読み応え、面白さ、太鼓判!
「私の愛、ナムジュン・パイク」 久保田成子著 平凡社
男と女が愛し合い、ある事情から子供は出来なかったが、世界の美術シーンに衝撃を与える作品の数々を遺した。
数年前、韓国の国立現代美術館でテレビ1003台を積み上げたビデオ・アートを見上げた。
それが現代アートの記念碑的作品であることも知らず、作者への関心も抱かなかったが、ナムジュン・パイクの名前は頭の隅に刻み込まれていた。
韓国最大の実業家白楽承の息子として生まれ、朝鮮戦争を避けて日本へ留学、東京大学教養学部へ入学。
大学からは「君の成績だったら法学科や経済学科にも行けるのに、なんで金にもならない美学科に行くんだ」 と諭されたほどの秀才。
数学や物理学が得意で、先端機器を開発し新しい映像を創造、
「何か一つのことに没頭し始めると、誰も止められないほど驚くべき集中力を発揮したのだが、ビデオ・アートに関心を持ってテレビという機械に深入りし始めてからわずか2年にして、ナムジュンは自分が開発した技術について特許を申請するまでになった。」
たいていの場合、数学的な頭が発達していたら、文系の方が疎かになりがちだが、ナムジュンは韓国語、日本語、ドイツ語、英語、フランス語、中国語を話すことができた。
読書欲は熱狂的というレベルで、何処に行くにも本を手離さず、東洋の古典から専門的な経済学の文献まであらゆる本を読みまくった。
作品作りのためにテレビを数百台も購入するために、家計はいつも火の車だった。
しかしナムジュンは金銭感覚がゼロ、芸術のために生涯を捧げる彼にとって、結婚すら眼中になかった。
久保田成子は新潟の教員の家に生まれ、幼い時から美術に才能を発揮。
高校2年の時、二紀展に入選、天才美術少女として脚光を浴びるが、家庭に反抗、退屈なまでに平和な新潟での生活に飽き飽きして上京。
東京教育大の彫塑科を選んだのは、日本の画壇には有名な女流画家が多くいて、
「女流彫刻家は珍しかったので、この分野であれば女性作家というプレミア付き、比較的容易に頭角を現すことができるだろうと信じていた」
つまり彼女にとって生きることは戦いであり、勝つためには戦略を練る人間であった。
1963年、前衛芸術家としてドイツで活躍していたナムジュンが来日、その公演を見た成子は一目惚れし、自身に誓った。
「この男は絶対に逃がさない、そのためには私も有名なアーティストになって、この男を掴まえるんだ。」
ニューヨーク近代美術館 (MoMA) に14点の作品が所蔵されるまでに成功をおさめる成子。
一方のナムジュンはビデオと芸術を合体させて、名実共に現代アートの巨匠となっていく。
若いエネルギーはあったが貧しかったアーティストの二人が、故国から遠く離れて異国の地をさ迷い歩き、どのようにしてアートシーンの険しい山の登頂を果たしたのか。
破天荒な生き方しか出来ない運命を持った二人が出会い、愛し合い、遺した永遠の作品。
ちょうど良いタイミングで4月中旬にニューヨークへ行く。
今度は二人が40年暮らした街と作品を、しっかり眼に焼き付けて来ようと思う。
1960年代、ニューヨークで活躍していたオノ・ヨーコ、草間弥生に負けず劣らず活躍していた久保田成子だが、これまで影が薄かったのはナムジュンを支えるために自身を犠牲にせざるを得なかったからだ。
その存在はアメリカのアートシーンが評価している。
ナムジュン・パイクと久保田成子、愛の結晶ともいえる本書は、韓国で出版された話題作。
共著者の南禎金高が数年かけてインタビューしたというだけあって、読み応え、面白さ、太鼓判!