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男と女とアートの熱狂

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至高のラブ・ストーリーを久々に読んだ気がした。

「私の愛、ナムジュン・パイク」 久保田成子著  平凡社

男と女が愛し合い、ある事情から子供は出来なかったが、世界の美術シーンに衝撃を与える作品の数々を遺した。

数年前、韓国の国立現代美術館でテレビ1003台を積み上げたビデオ・アートを見上げた。
それが現代アートの記念碑的作品であることも知らず、作者への関心も抱かなかったが、ナムジュン・パイクの名前は頭の隅に刻み込まれていた。

韓国最大の実業家白楽承の息子として生まれ、朝鮮戦争を避けて日本へ留学、東京大学教養学部へ入学。
大学からは「君の成績だったら法学科や経済学科にも行けるのに、なんで金にもならない美学科に行くんだ」 と諭されたほどの秀才。
数学や物理学が得意で、先端機器を開発し新しい映像を創造、
「何か一つのことに没頭し始めると、誰も止められないほど驚くべき集中力を発揮したのだが、ビデオ・アートに関心を持ってテレビという機械に深入りし始めてからわずか2年にして、ナムジュンは自分が開発した技術について特許を申請するまでになった。」

たいていの場合、数学的な頭が発達していたら、文系の方が疎かになりがちだが、ナムジュンは韓国語、日本語、ドイツ語、英語、フランス語、中国語を話すことができた。
読書欲は熱狂的というレベルで、何処に行くにも本を手離さず、東洋の古典から専門的な経済学の文献まであらゆる本を読みまくった。

作品作りのためにテレビを数百台も購入するために、家計はいつも火の車だった。
しかしナムジュンは金銭感覚がゼロ、芸術のために生涯を捧げる彼にとって、結婚すら眼中になかった。


久保田成子は新潟の教員の家に生まれ、幼い時から美術に才能を発揮。
高校2年の時、二紀展に入選、天才美術少女として脚光を浴びるが、家庭に反抗、退屈なまでに平和な新潟での生活に飽き飽きして上京。

東京教育大の彫塑科を選んだのは、日本の画壇には有名な女流画家が多くいて、
「女流彫刻家は珍しかったので、この分野であれば女性作家というプレミア付き、比較的容易に頭角を現すことができるだろうと信じていた」
つまり彼女にとって生きることは戦いであり、勝つためには戦略を練る人間であった。

1963年、前衛芸術家としてドイツで活躍していたナムジュンが来日、その公演を見た成子は一目惚れし、自身に誓った。
「この男は絶対に逃がさない、そのためには私も有名なアーティストになって、この男を掴まえるんだ。」

ニューヨーク近代美術館 (MoMA) に14点の作品が所蔵されるまでに成功をおさめる成子。
一方のナムジュンはビデオと芸術を合体させて、名実共に現代アートの巨匠となっていく。

若いエネルギーはあったが貧しかったアーティストの二人が、故国から遠く離れて異国の地をさ迷い歩き、どのようにしてアートシーンの険しい山の登頂を果たしたのか。

破天荒な生き方しか出来ない運命を持った二人が出会い、愛し合い、遺した永遠の作品。

ちょうど良いタイミングで4月中旬にニューヨークへ行く。
今度は二人が40年暮らした街と作品を、しっかり眼に焼き付けて来ようと思う。

1960年代、ニューヨークで活躍していたオノ・ヨーコ、草間弥生に負けず劣らず活躍していた久保田成子だが、これまで影が薄かったのはナムジュンを支えるために自身を犠牲にせざるを得なかったからだ。
その存在はアメリカのアートシーンが評価している。

ナムジュン・パイクと久保田成子、愛の結晶ともいえる本書は、韓国で出版された話題作。
共著者の南禎金高が数年かけてインタビューしたというだけあって、読み応え、面白さ、太鼓判!

新宿西口ジンギスカン

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先週は新宿京王百貨店まで1週間電車通勤をした。
デパートの開店は10時だが、朝7時前に家を出て、各駅停車で片道1時間、さらに開店までの2時間を喫茶店でコーヒーをすすりながらページをめくり、4冊の世界に遊んだ。

世間も自分も慌ただしい年度末に、野田知佑のカヌーのように、こんな自由な時間の流れに身を浮かべられるのが、フリーランスに許された唯一の贅沢。
(10時以降は9~10時間立ちっぱなしの営業マンを真面目にやってます)

西新宿に 「ジンギスカンだるまや」 を見つけたのは1年前の同じ会期だった。
肉食大好きという洋画家 守家勤先生は、とりわけ羊が大好物という。
自分も本場モンゴル、そしてトルコでその美味しさにとりつかれて以来、ジンギスカンを愛して止まない。

「美味しい」 の 「美」 という文字は、「羊」 と 「火」 の合体文字。

太古から人間にとって最高級の美味は、羊を火で炙った肉と脂だったという文字の証言。
食べるたびに時空を超えた遥かな旅路を味わえる幸せ、それがジンギスカン。
日本人の中でも北方系をルーツとする人々が、遊牧の故郷に思いを馳せるひとときがそこにある。

二人の好みが一致するため、一昨年、新宿でジンギスカンを探した。
最初に見つけたのが、思い出横丁のジンギスカンだった。
そこも美味しかったが、他にもあるかと探して探り当てたのがビル2階の 「ジンギスカンだるまや」。
1階はナント、トルコ料理の店。
昨年は2回行ったが、今年は1週間に4回行った。

ギャラリーの人から 「よく連日食べられますね」 と言われたが、「モンゴル人は1年中食べてますよ」 と言いながらいそいそと通った。

予約しないと入れない繁盛店。
女将さんに店の来歴を尋ねると、札幌で美大を目指して1年浪人、2年目は東京で勉強していたが、飲食店でアルバイトをしているうちに、画家よりそっちの方が自分の適正に合っていることを発見し方向転換。

札幌時代にジンギスカンの店によく行っていたが、一番気に入っていたのが 「だるま」 という一番の人気店だった。
カウンターだけの店で、その前に七輪を並べて焼く形が気に入っていたので、この店も同じにしました。
「だるま」 の人気にあやかって 「だるまや」。
「や」を付けたのは、系列ではないので遠慮しましたとのこと。

女将さんのほかのスタッフは、みなワーキングホリデーで来日している韓国の青年たち。
青年4人みな動きはキビキビ、言葉は習い中の丁寧な日本語、愛嬌を振りまきながら接客をこなす中に、サービスを越えたホンモノの熱いハートがビシビシ伝わって来る。
これじゃ韓流スターが日本人にモテるのも無理はない、淡白な日本人にはとても敵わないと思ったしだい。

当然、店には女性客のグループもあり、彼らの魅力がヘルシーな羊とともに若い女性客を引き付けているのがわかる。

守家先生の個展の最終日、だるまやの女将さんが美しい着物姿で会場に現れた。
聞けば、4人組の一番イケメンのリーダーがこの日学校を卒業、4月からはオーストラリアへ行って、新たなワーキングホリデーで勉学に励むそうだ。

「彼の卒業式を、お母さん代わりに行ってきた帰りなんです。」
という女将さんの目に、光るものがあった。

店でカッコいいリーダーに、見事な体つきしているね、と言ったら。
「5年も兵役行ってきましたから」 と美しい笑顔で答えていた。


追記 女将さんが今日の記念にと、作品をお買い上げ。来年は1週間予約を入れたいほど感激。ありがとうございました。
 
 
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蛇足 昨日、国立新美術館で開催中の白日会展を観賞した後で、新橋駅を通りすがりに、SL広場に古本市のテントが13張りも出ている状況に遭遇。
先を急いでいたが、ある本を探すチャンスと思って、片っ端からたどったが見つからなかった。
その代わり、思いがけない戦利品を獲得。
羊の国、遊牧民の世界、わが愛するトルコに迫る民族誌と、ナントなんとミステリー。

こんなサプライズの本があるの? 
打出の小槌のように飛び出た出逢い、人生摩訶不思議!


明日からまた、しばし広島に出張します。

広島から高松へ

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BS -TBS 「徳さんのお遍路さん~ 結願SP」 をみた。 
徳光和夫が四国八十八ヶ所を行脚、高野山に登り、第412代 松長有慶座主と対談していた。
松長座主が語った言葉から。

「大  欲  得  清  浄」
空海は欲望を大きくしなさいと言っている。
他の宗教者が欲望を無くせと言っているのとは異なる。
自分のためと思うから良くない、他人の幸せにつながっていく形で、自分の欲望を大きくしなさい。

「即  身  成  仏」
来世でなく、現世で仏になること。
現実世界を極楽にせよ。

「虚  往  実  帰」
空海の言葉で私が一番好きな言葉。
遣唐使で中国に渡った空海が、密教の師 恵果と会った際に感じたと思われる言葉。
虚しく来た人に、少しでも晴れ晴れとして帰って頂きたい。
これは商売にもつながることです。

第412代座主、高野の山上に空海の法灯を守って来た411人の人生があったことを思うと、凄まじい人間の歴史をそこに感じる。
来年、高野山が開創1200年を迎える。

その前に今年は四国八十八ヶ所霊場の開創1200年、その記念の年に高松三越で岡本光平展 「空と海の物語」 が6月3日から開催される。

広島に来る直前に 「四国八十八ヶ所霊場会 讃岐部会」 の後援を頂くことが出来た。
さらに個展タイトルに 「四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念」 を冠する許可も頂いた。

すでに後援を頂いている「香川県真言宗連盟」 の全面協力のもとに、個展の準備を進めている最中であるが、明日は高松で関係各所と打ち合わせ。


昨日 は広島のデパート福屋の外商と山口県岩国市の郊外へ外販に出かけた。
一昨年、高知県の仁淀川沿いの桜に心を奪われたことを思い出しながら、錦川 を遡った山間の村に暮らすお客さまを訪ねた。
思いがけず満開の桜咲く錦帯橋を眺めることが出来た。

寿司

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広島から高松へ移動する際、岡山に途中下車した。
普段なかなか会えない大学時代の友人が迎えにきてくれて、案内されたのが 「佐久良家 藤ひろ」。

全国の居酒屋の名店を巡る太田和彦が 「居酒屋味酒覧」 で紹介している。
瀬戸内の魚介がおいしいのは言うまでもなく、初体験のマタタビ焼酎が何杯も進んでしまった。
春野菜のサラダは菜の花、のびる、ぎぼうし、山ウド、コゴミ、タラノメ、つくし等のほろ苦さが、体中に春のエネルギーをみなぎらせてくれた。
そして何よりも旧友との楽しい語らいが、時間をあっという間に過ぎ去らせ、高松に着いたのは1時半だった。


帰宅して本棚から早川光 「鮨 水谷の悦楽」 を取り出して読む。
1月から12月まで鮨ネタをとおして四季の移ろいを楽しませてくれる1冊。

月の初めに1章ずつ、鮨屋に行く代わりに味わうのだから安上がりである。
しかもミシュランの最高峰の職人技まで楽しむことが出来る。

「四月 “目に青葉、山ほととぎす初がつお” と詠んだのは、江戸中期の俳人にして、書道、茶道、儒学に能楽までを修めた碩学の人、山口素堂だが、彼のような通人から名もない市井の人まで、江戸の人々はとにかく初ものを好んだ。ことに春の “初ガツオ” への執着には格別のものがあったようだ。」

鮨屋に欠かせないガリ、四月は新しょうがの季節でもある。

「鮨水谷ではカツオを皮目にほんの少し焦げ目がつく程度に炙ってから握る。それもガスではなく、わざわざ藁を燃やした “藁火” を用いて燻す。」

カツオの匂いは、カツオのタンパク質に起因するのだが、ほかの魚のようにワサビだけでは臭みを消すことはできないため、しょうがを挟んだりアサツキをのせたりの工夫、さらに火で炙る方法が生まれた。

「カツオの皮目を火で炙るのにはもうひとつ理由がある。カツオの皮には強い旨味があるのだが、そのままでは硬すぎて歯にあたってしまう。そこであえて皮をひかずに炙ることで食べやすくしているのだ。この皮をさっと炙る技術は “焼き霜” と呼ばれているが、カツオ以外の魚にはあまり使われることがない。」
 
BS TWELLVであす6日の8時から 「早川光の最高に旨い寿司」、日本の食文化の代表である寿司職人に焦点を当てたドキュメンタリーが始まるそうだ。
 
一流店は常連客だけで成り立つ商売をしているため、テレビに出ることを嫌う。
寿司漫画 「きららの仕事」 の原作者であり、30年以上も食べ歩きしてきて、江戸前寿司に関する著書も多い早川氏の腕前がどれだけ名店を紹介するかも見所らしい。
 
タレントが食べ歩く番組は品がない、ではこの番組はどうなのか。
やっぱり自分は、活字が無難だ。
紹介する写真にも、カメラマンや陶芸家の技を楽しむことが出来る。
 
ちなみに写真は九州油津の延縄のマグロ、有明海のミル貝、山口のタイラ貝、北海道のコバシラ、佐渡のスミイカ、江戸前小柴のシャコ・・・ それに近江しょうが。
 
 
 

初心に返る旅

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本日 「株式会社 宙」 独立7周年を迎えました。
お世話になりました皆様に、ひとりひとり感謝を申し上げたい気持ちでいっぱいです。

石の上にも3年を2回乗り越えることが出来ましたのは、予想もしていなかった奇跡のような出逢いに何度も救われ、その度に勇躍しながら今日まで来られましたこと、ほんとに夢のようです。

昨日は晴れやかな青空の下、サクラの花びら舞う通学路を両親と歩むピカピカの一年生たちに行き交いました。

新しい希望に満ちた第一歩を、自然も祝福している光景に、そうだ、そういう季節の中に自分もいるんだなと改めて実感しました。

独立する1ヶ月前、新しい世界に飛び立つ前に古い上着は脱ぎ捨てようと、ニューヨークへ飛び立った時の心境が蘇りました。

あの時は長いサラリーマン生活を止め、自分もピカピカの一年生になった期待と、それを上回る不安に身震いしていました。

不安だけど一歩踏み出せば、そこに新しい世界が拓かれる。

それを信じて行くしかない。

行く末に一縷の当てがあるわけでもない。

しかし行くと決めたからには、出逢いをつくるしかない。

そんな心境を抱えて訪れた自分を、メトロポリタンやMoMA の現代アートの作品たちが勇気づけてくれました。

そこに待っていた作品たちは、移民たちが作った歴史の浅い国で、祖国ヨーロッパの伝統に根ざさない新世界を模索し、時代を切り開いた作家たちの生の証しでした。
 
帰国した翌月、彼らの力強い執念に追い風を受けて創業。


明日から2度目のニューヨーク、さらに初めてのニューヘブンに旅立ちます。

日程は6日間と短いのですが、「ニューヨークアートとエール大学講演会、現代美術と岡本光平の書道実演」 という長ーい長いタイトルの旅です。

エール大学からの招聘に応えて岡本先生が学生に講演と実演を披露する際のサポートが主目的ですが、美術館やソーホーのギャラリーを巡って今日のアートシーンを訪ねる美術三昧の旅に、日本から馳せ参じるのは20余名。

自分にとっては、どうやら初心に返れという旅になりそうです。

アメリカ旅 エール大学

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1701年創立のエール大学は、アメリカに現存する大学では3番目に長い歴史を誇る。
学力の高い評価はハーバード大学、プリンストン大学とともにBIG3と称され、世界でも10指に入る名門校。
過去に5人の大統領を輩出し、近年ではヒラリー・クリントン前国務長官も卒業生に名を連ねている。
大学院ランキングでは法科大学院と芸術学分野で、全米1位となっている。

そのエール大学から一昨年、書家 岡本光平に作品制作の依頼があり、昨年改めて 「書道からみた日本文化」 の講演と、書の実演のオファーがあった。

さらに習字のワークショップも開かれることもあって、われわれ20名がサポートと現代美術の見学も兼ねて同行した。

4月12日、午後0時30分、YALE UNIVERSITY ART GALLERY のホールに、大学関係者や学生がつめかける中、通訳を交えて講演が始まった。

実演は藤原佐理 「詩懐紙」、藤原行成 「白氏詩巻」 の臨書と、空海が日本に伝えた飛白体による抽象を屏風に揮毫した。

館長をはじめ熱心な聴衆による質疑応答は、終わることが出来ないほどの盛り上がりだった。

裏方でわれわれを世話してくれた大学院生の楊さんは、中国杭州の出身で、8歳の時に渡米。
両親はエール大学の医学部の研究員であり、彼女は中国語はもちろん英語も日本語も流暢に話し、専門分野は日本の平安文化だという。
世界中から英才が集まるエール大学は、トップのフォトのように素晴らしい環境の中にあった。
下のフォトの建物は学生全員が2年間暮らす学生寮とは思えない寮。
 
 
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                       「書からみた日本の美と心」    岡本光平

書道の中心モティーフである漢字は、5世紀から7世紀にかけて仏教とともに日本列島にもたらされました。
このように日本文化の形成は、主に朝鮮半島や中国大陸から多くの移住者によって基礎が作られました。もちろんその他にも南方の島々や北方のシベリア沿海からも移住者がおり、さまざまな人間や文化が流入し、ミックスされ、時間をかけて独自の文化スタイルをつくっていったのが日本文化です。
そのためにはいくつかのキーワードがあります。
ひとつはお互いの違いを認めることでした。排斥や否定をしない受容と寛容の気持ちを持たないと、狭い日本の中では共存共栄して行くことができない、という考え方が自然に生まれていきました。その典型的な象徴は日本古来の神と大陸から渡来した仏の両方を受容し尊んできたことにあります。
大体において朝鮮半島や中国大陸からの移住者は、戦争や動乱を避けて来ましたから、多くの人々が平和志向でした。
そして海という天然の障害に守られているために、大陸に近いわりには文化的な影響を受けにくく、独自の文化が発展しやすいという環境にありました。
日本の気候風土の最大の特徴は、はっきりとした四季があることと、豊かな天然の水に恵まれていることです。
四季の移り変わりは、日本人の衣食住のそれぞれのライフスタイルに繊細な美意識を与えました。豊かな水は美しい自然をはぐくみ、さまざまな工芸文化を育てました。
自然を愛し、自然の中に宿る神々を崇敬するという、現代のテクノロジー全盛の時代にあっても日本人の精神的な基盤はここにあります。それは全国のどんな片田舎でも大切に守り続けられている祭りが象徴しています。祭りはすべて神事なのです。そして日本のすべての芸能、芸術の出発点となりました。
大陸から請来した仏教も日本においては自然を深く尊敬するというアニミズムの自然崇拝を基盤の上に立って融合しました。日本の書道芸術も例外ではありません。
漢字を輸入し、書の文化も直輸入の時代が300年あまり続きましたが、9世紀から10世紀ぐらいになると、カタカナや平仮名の発明だけでなく、漢字書道も日本人による日本人のための日本人の書をつくり上げることに成功しました。
漢字を発明した中国においては 「書法」 といい、日本においては 「書道」 といいます。両者の呼び方には微妙なニュアンスの違いがあると考えられます。
「法」 とは混沌とした宇宙を法則で秩序化することで、その根本は陰陽の思想です。昼と夜、男と女、火と水のように相反する宇宙の二つの “気” が対立するのではなく、融合合体することによってすべてが成立しているという考え方です。
したがって四角の白い紙に、円い筆による黒い墨で文字を書くところからすでに陰陽が合体しています。
漢字の一字一字は森羅万象の化身であり、古い筆法は陰陽法の書き方で書かれています。それは宇宙や世界を筆と文字を通して具体化、具現化して行くことを理想にしたと考えられます。

これに対して日本の書は、中国の書の伝統を受け継ぎながらも自然に近づき一体化しようとします。
線はまるで流れる川の水のように柔らかく、穏やかな雰囲気になりました。形も角がとれて優しくなりました。書き手が上流貴族たちであり、書を生活の中で屏風などのインテリアとして日々観賞できるようにしました。
それはあたかも自然の一部として、目の前にある自然の風景と同じ波長を持つ書きぶりが開発されました。そのパイオニアたちは小野道風を筆頭に、藤原佐理、そして日本の書を大成させた藤原行成の3人です。
先に述べたように、日本では書法とは言わずに書道といいます。この “道” という字には精神的な修養、つまり心を練る、深めるの意味が込められています。日本には同じく歌道、茶道、華道、柔道、武士道など、ほとんどの伝統的な鍛練が必要なものには “道” が付けられ、修行の第一は礼節を重んじることとされています。
“道” には修行することによって自身の精神を鍛え、浄化する意味が込められています。

さてここからが本題です。日本の書の特徴は中国の書に比べて大きな特徴が二つあります。
一つは “カスレ” の美です。すでに9世紀に登場した天才的な空海という僧侶の書の中に、意識的に表現されたものが見いだせます。カスレの書は中国には基本的にありません。
カスレは、水の流れ、滝の水が落ちるさま、カスミや霧がたなびく風景を思い起こさせます。日本人にとってそれらは、古来から神が宿るという潜在意識があります。
カスレの書は、15世紀の一休というとても個性的な禅の僧侶によって完成されました。
もう一つの特徴は “余白” です。書き尽くさないで意識的に白い空白を残す表現です。この余白意識は中国にはほとんどありませんが、韓国と日本にはあります。韓国における余白はかなり無意識的なものが多いと考えます。
日本人の余白意識は、現代においてもさまざまに見ることができます。
たとえば広大な神社において、建物はそれほど大きくはありませんが、長い参道があります。さらに敷地全体が樹木に覆われた大きな余白です。古代においては建物すらなかったとされ、大きな樹木や岩が天上から降り立つ神が宿るところとして礼拝されました。
また少し前の日本家屋には床の間という一見、非実用的な余白の空間がありました。床の間は書画を飾り、花を活け、香を焚いて家の繁栄をもたらす神様をもてなす神聖な場所でした。
また茶碗にご飯を盛り付ける量というものも、見てちょうど良い美しい量を加減しているのが日本人の一般的な美意識としてあります。これも一種の余白だと言えます。
余白は一見すると、2次元の平面において無駄な空間のようにも見え、非合理的な表現です。その絶対量を数値化することは不可能です。
余白は余韻を味わう場所であり、神が降り立つ場所であり、想像力を遊ばせるための3次元、4次元的空間です。そして日本の精神文化を支えることになる仏教の無常観、つまりカタチあるものは仮の姿であって実体はない、という空や無という観念と結び付いたと考えられます。そして逆に何もない空白にこそ、すべての真実があるという哲学です。
そのような考え方から、余白を美としていち早く定着させたのが書の世界でした。余白の空間美は、現代においても日本人の美意識の根底を支え続けており、私たちの誇りであります。
 
 
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アメリカ旅 美術館巡り1

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ニューヨークで最初に訪ねたのはアメリカの鉱山王が築いたグッゲンハイム・ミュージアムだった。
7年前に訪れた時には改装工事中で、フランク・ロイド・ライト設計の全景が見られなかったが、蔡国強の個展が開催されていて、コンテンポラリー・アートの鮮烈な洗礼を受けた懐かしい場所。
今回は1930年代イタリアの未来派の展示だったが、前回のような興奮がなかったのが残念。
それにしても、この美術館の前に広がるセントラルパークは美しい。
樹木までアートに見える。
 
 
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次に訪れたメトロポリタン・ミュージアムは、世界3大美術館だけあって巨大だ。
限られた時間では、欲をかいたらほとんど何も見られない。
前回丹念に見たモダーン・アートと印象派、エジプト美術を思いきってすっ飛ばし、オセアニアとアフリカのコーナーを回った。
ニューギニアの首狩り族が残した 「ムビスの柱」 など、テレビのドキュメンタリーで不思議に思っていたものを実際に見て、その巨大な柱に宿る太古の息吹を感じることが出来たのは収穫だった。

世界中から集められた祭祀の道具や仮面、人形(ひとがた)を見ていると、すべてがピカソも真っ青な天才芸術家の作品に見えた。
 
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                                              ブラウナー 「prelude to a civilization」
 
 
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史上最高価格を更新したフランシス・ベーコン
 
 
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                         「ムビスの柱」は4メートルほどの高さ
 
 
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MoMA ではモダーン・アートを見ようと勇んで出かけたのだが、いきなりゴーギャンの大きな特別展に迎えられ、嬉しいことにかなりの時間を費やしてしまった。
油彩と版画に素晴らしいものがたくさんあったが、最も興味深かったのが木彫である。

絵からはヨーロッパ人のゴーギャンを感じるのだが、木彫からはポリネシア人に生まれ変わったゴーギャンを感じた。

丸太にゴーギャンらしいモチーフをトーテムポールのように彫ったものや、厚さ10センチくらい面積30号くらいのぶ厚い板にタヒチの風俗を彫ったものなど、まさにゴーギャンの魂そのものだった。
これだけ重たくて大きなものを、よくぞ南海の島から海路はるばる運んだと感心したのだが、ゴーギャンの価値がそれだけ偉大だった証なのだろう。
〈下の作品は小品〉
 
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                        ラウシェンバーグ 「bed」
 
         
正月に、アンリ・ルソーが面白いからぜひ読めと薦められて読んで、ほんとうに面白かった原田マハの 「楽園のカンヴァス」(新潮社) の中に次の文章がある。

「『夢』は、同じくルソーの 『眠れるジプシー女』 とともに、MoMAのコレクションの中でもっとも人気の高い作品です。世界中からニューヨークを訪れる観光客は、ピカソの 『アヴィニョンの娘たち』、ゴッホの 『星月夜』、そしてこの 『夢』 をめがけてMoMA へやってくる。 年間2百万人近い来館者の期待を裏切るわけにはいかないから、ほとんどどこにも貸し出さない。いわば門外不出です」

前回のMoMA では大好きなゴッホの 「星月夜」 の実物を確認し、絵画の歴史を変えたと言われるピカソの問題作 「アヴィニヨンの娘たち」に圧倒されたわりには、ルソーの印象が薄い。
この文章にあるように、貸し出されていたことはあり得ないとすると、余りに大き過ぎて視界に収まらなかったのかも知れない。
今回はMoMA の中で最も目に焼き付いた作品となった。
 
 
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                               ルソー 「夢」

アメリカ旅 美術館巡り2

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ニューヨークが世界の中心と言われるのは、そこに世界一多様な人々が暮らし、無いものはないくらい何でも揃っているからだそうだ。

それがどれほど便利かというと、たとえばアメリカにテレビ局は5000局あり、何でも見られる。
しかし、何を見たいか目的を持っていないと、ただ見失うだけになる。

マンハッタンに暮らす人たちの5軒に1軒は、年収4000万円以上、その収入がない人は一軒を数人で借りるという。

五番街に建ち並ぶブランド店の月の家賃は1億円以上、ほとんど赤字だけど自社の宣伝として店を構えているという話に、戦慄さえ覚える。

史上初めて出現した多人種多民族国家ゆえ、歴史は浅いが、あらゆる矛盾も孕んでいる国アメリカ。

そんな中で現代アートは生まれた。

目眩のするような高層ビルが林立するマンハッタンから、郊外に車で90分くらい走ると、広々とした自然に囲まれた美しい景色の中に現代美術の殿堂ディアビーコン、今回の旅で一番期待していた Dia Beacon はあった。
 
 
 
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ハドソン川の辺りにたつ建物は、兵器製造工場からはじまり、ナビスコのパッケージ製造工場でもあったため、やたらと天井が高く広大だ。

日本的な感覚で言えば、一部屋が一つの工場くらい大きいブースが、行けども行けども並んでいる。
その一つ、あるいは3つくらいの空間を、一人の作家の作品が占めている。
 
高さ3~4メートルはあろうかと思われる鉄クズの塊りが、離れて眺めているうちに、軽やかにダンスしている姿に見えてくる。(パンフ左下のフォト)

Sandbackの部屋では、天井から垂れた毛糸が床を這い、また天井まで矩形を描いているだけだが、何も無い毛糸の線だけの四角形が壁に見える。

次のHeizerのブースに回ると、テニスコートを縦に2面つなげたくらい広い真っ白な空間の床に、2つの円と長方形と正方形が真っ黒く描かれているように見えた。(フォト右から2列目の上から4番目)

しかし近づいて、目映い明るさに目が慣れて見ると、それは平面の絵ではなく、直径数メートルに及ぶブラックホールのような漆黒の深い穴だった。

1次元が2次元に、3次元が2次元に、既成概念をことごとく覆す作品たち。

作品を対象物として見るのではなく、作品の中に次々引き込まれて行く自分がいた。

ミニマム・アート これ以上引けないところに、無限の可能性を表現していく作家たち。

大量消費、コピー社会の裏返しに生まれた作品。

ヨーゼフ・ボイスに限らず、どの作品からも、何故かしら悲しい旋律が聴こえるような気がした。

帰国して石牟礼道子の 「葭の渚」「花の億土へ」 の書評 (読売) を読んでいるうちに、ハドソン川にたゆたうビーコンの旋律が重なった。

「美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。意識するとしないとにかかわらず、体験するとしないとにかかわらず、背中合せになっていると思います。そしてあまり近代的な合理主義では、悲しみも美もすくいとれないです」

評者の若松英輔氏の
「悲しみに美を、美に悲しみを見る。現代では、こうしたことがしばしば、見過ごされているのではないだろうか。」

ビーコンまできて、若き作家たちが時代への絶望の果てにすくい上げた、現代アートという美しい景色に出会えたような気がした。

20世紀の後半に突如咲いた現代アートの花。

作家たちの息詰まる格闘の結果から離れてテラスに出ると、そこにはハドソン川のゆるやかな流れ。

ゆく河の流れは絶えずして、「現代アート」 も創られるそばから過去の遺物となっていく。
 
 
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                              ディアビーコンの庭
 
 
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                                  外観

アメリカ旅 美術館巡り3

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エール大のロスコ
 
 
グッゲンハイム、メトロポリタン、MoMA 、ディアビーコン、目的としてきた美術館を見終わった我々は、コネチカット州ニューヘイブンにあるエール大学へ向かった。 

岡本光平パフォーマンスの合間にエール大の美術館を訪ねたのだが、そこに待っていたのは、ある意味エールならではの宝の山だった。 

最初に紹介したように、エール大学は政財界に傑出した人物を輩出している。
そのOB たちの力が、世界中から名作を集めている。

ギリシャ彫刻の並ぶエントランスから階を上がると、最初に出迎えてくれるのがゴッホ 「The night cafe 1988」。
8号くらいの小品ながら、42億円の評価があるらしい。
作品は人気のある 「夜のカフェテラス」 の店内風景、この2階にゴッホは暮らしていた。

ギャラリーの先に続くめくるめく巨匠たちの作品には、MoMA にも引けをとらない名品が並ぶ。

作品の素晴らしさに驚く前に、もっと驚いたのが、これだけの収蔵品を無料で開放しているエール大学のポリシーだ。
 
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                                 カンディンスキー
 
 
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                         ハリーポッター第一話のロケ現場
 
 
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                          壁の大理石から透ける光で蔵書を守る
 
 
 
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              ニューへイブンにはアメリカで最初のハンバーガー店があった
 


エール大学の天井が高い学生食堂は、ハリー・ポッター第1話の中に登場した有名なシーンのロケ現場。

図書館にはグーテンベルク印刷による世界最古、初版の聖書が寄贈されていて、誰でも無料で見学出来る。
それこそ貴重な本たちを守るため、壁は大理石の板になっていた。
25ミリくらいの石板を透す光は、中世の趣があった。

政界、経済界に多くの人材を送って来たエールの底知れぬパワーをそこに見た。
志ある者にはすぐに寄付が集まるという。
学術研究のために海外留学を希望する者には、即座に3~4000万円の資金が用意されるという境遇の中で、学生たちも必死の勉強を続けているという。

ニューヨークのタイムズスクエアに土曜の夜、11時頃に出かけた。
まるで年末のカウントダウンのように街に繰り出している人混みに、アメリカのパワーを感じた。

ヤンキースショップのウィンドウには、田中将大の背番号19のTシャツが、ヤンキースのスーパースター・ジーターの2と並んでディスプレイされていた。
 
 
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                           ソーホーの路上ギャラリー
 
 
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ニューヨーク最後の晩をJAZZバーで迎えた。

ヨーロッパで近代絵画の始まり、つまり印象派がうぶ声をあげたころ、アメリカでは時を同じくして黒人によるjazzが生まれた。

アメリカ最後の夜に、自由の萌芽を振り返りながら、多人種多民族国家ならではのアメリカが持っているパワーを持ち帰りたいと思った。

2014銀座インテリア書展

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☆CACA現代アート書作家協会 5周年記念ー「風」の競演
一堂に並んだ「風」字作品は、すべて同じ額装で驚きの記念価格を実現しました。

 
☆CACA現代アート書作家協会 5周年記念ー「風」の競演
一堂に並んだ「風」字作品は、すべて同じ額装で驚きの記念価格を実現しました。
画像の説明
画像の説明
 
毎回、参加者による切磋琢磨を感じることの出来る素晴らしい展覧会だが、今回は5回目の節目であることが作品から伝わってくるほど意欲作が多いように思った。
そう感じるのは、書としての作品が見事なのはいうまでもないのだが、今回はインテリア展としての装丁において一段の面白さを感じた。
新しい書のあり方に挑戦する精鋭たちの情熱を、ぜひお楽しみください。
 
  会場 
  タチカワ 銀座スペース Atte
  東京都中央区銀座8-8-15 青柳ビル
  タチカワブラインド
  銀座ショールーム内 B1F

二重の春に笑う故郷

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26日の朝8時、スピーカーから突然鳴りはじめた防災放送のチャイムとそれに続く内容に、何事かと耳をそばだてた。

「富岡製糸場が世界遺産に登録の見通し・・・」

という目出度いお知らせにホッとし、こんな喜びのニュースがコンピューターによる音声のため、緊急事態を報じる際と同じであることが可笑しかった。

たまたま帰郷していたので、富岡市民、群馬県民にとっての、歴史的な朝に立ち合うことが出来た。
富岡製糸場はシルクロードの東の終着点。
 
 
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白内障の手術を終えた母に、生まれ変わった目で新緑に輝く景色を見せてやろうと帰郷していた際の出来事だった。

「山笑う」 今がちょうどそのタイミングと思える山肌の緑萌える輝きを愛でながら、「にほんの里100選」 にも選ばれた山里 群馬県甘楽郡秋畑へ向かった。

自分が3歳から小学2年まで、母親が山あいにある甘楽町秋畑小学校に勤めていた 。

当時 (1960年前後)、秋畑小学校の職員は、さらに山奥の那須分校の日直を交代で勤めていた。

分校がある那須地区は山の斜面しかないところに村が拓けた土地柄で、平地がないために石垣を積み上げて畑作農家が点在する。

今回改めてその景色を展望して、四国山中の祖谷で見た山村風景を思い出したが、この地域も祖谷と同じく平家の落人伝説が残っている。

那須分校 (明治7年開校、平成7年閉校) に立ち寄ると、年月を感じさせる木造校舎がまだ残っていた。

校庭の片隅にある鉄棒は、母の日直について行った自分が初めて逆上がりしたものだと教えられた。

半世紀前に自分の小さい手が握ったはずの鉄棒に触れ、感触を確かめられるとは思いがけない邂逅となった。

東京で生まれ育った母が、町の小学校から山の秋畑小学校へ転勤した時は、あまりの山深さに驚きの連続で、いつまで続けられるか心配したという。

しかし勤めはじめると、子供たちの純真さに励まされ、6年も通った。
バスを降りると、毎朝生徒たちがバス停に出迎えてくれたという風景が、山の子供たちの純真さを物語っている。

それから60年経ても、教え子の中にはいまだに毎年欠かさず、山椒の実を届けてくれる人がいるそうだ。

帰りは山桜が咲いている峠を越えて上野村へ降りた。
万場では神流川の清流の上に鯉の群れが勢いよく泳いでいた。
 
悲惨な韓国フェリー事故、重苦しいTPP交渉のニュースばかり見ていた目には、眩しいほど気持ち良い新緑と鯉のぼりの遊泳だった。

山笑う春、人も世界遺産に笑う、群馬はまだ春たけなわ。
 
 
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急斜面に暮らす那須地区、右下に分校が見える。

君の悲しみが美しいから

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アメリカから帰国して半月経つのに、未だ半時差ボケのような、非日常的な感覚の中をさ迷っている。
眠ったと思ったらすぐに目が覚めてしまい、深夜から朝までの長い時間を、作家たちはどんな思いであれらの作品を創ったのだろうかと思いをめぐらす。
今朝も4時頃、雉の鋭い鳴き声を聞いた。

これは時差ボケではなく、衝撃を受けた余波なのかと思うようになった。
アメリカで見た作品たちが、頭の中でフラッシュ・バックされている。

モダンアートの巨匠として億万長者になった作家もいるが、多くの作家が記念碑的作品を残しながらも非業の最期を遂げているのはどうしたことか。

作品が浴びている輝かしい脚光とは裏腹に、非業の死の影をまとうことによって、さらに存在感を増している作品たち。

作家たちからの魂の訴えを受け止め、消化するには、まだまだ道遠しである。

4月19日の 「アメリカ旅 美術館巡り2」 でも触れたことだが、評論家 若松英輔氏が書評した石牟礼道子の、
「美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。」
という文が、あれ以来ずうっと頭の中で残響している。

その書評の意味を汲み取ろうと繰返し読んでいるところへ、若松英輔氏自身の著書の紹介が目の前に飛び込んで来た。
まるで迷える羊を導くようなタイミングで。(4/28読売夕刊)

若松英輔著「君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた」(河出書房新社) より。

「現代ではいつからか、悲しみは嘆かわしい、惨めなだけの経験であるかのように語られるようになってしまいました。かつては違ったのです。悲しみは、人間がこの世で感じ得るもっとも高貴な営みの一つでした。」

これまで芸術の歴史を彩って来た人たちの、ワザを超えた精神の営み、美の本質がより鮮明に見えて来た気にさせる文章である。

「人間が、この世に残すことのできる、もっとも貴いものの一つはコトバである」

「コトバは生きている。喩えではない。大切な人が亡くなる。彼らはコトバとなって私たちの傍らに寄り添っている」

コトバを発見した人類は、やがて土をこね石を彫り、絵を描き、文字を使うようになった。

美術館は芸術家たちのコトバの展示室なのだ。

その遥かな旅路の中で、作品を眺める我々もまた旅人なり。

上野の森へ

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上野で開かれている第80回記念 東光展に行ってきた。

木版画家の田中里奈さんが二席となる都知事賞を受章していた。
動物たちの生と自身の先を重ね合わせ、それぞれが自分の足で大地に立つ生のドラマを濃密に表現していると思った。

上の写真は左から春日裕次(森田賞)、田中里奈、田代利夫(80回記念賞)。

次は会場で思わず足が止まった3点。
歴代主要作家展の中から江藤哲「犬吠埼」、水彩画の村松泰弘「風布の流れ」、人物画の横田テル「ひととき」。
 
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                          東光会理事長 佐藤 哲 「刻」
 

現代を描く画家たちの作品を見たあと、国立博物館に行った。

「キトラ古墳壁画展」 の前は長蛇の列、最後尾は40分待ちのプラカードが出ていた。

開山・栄西禅師800年遠忌 「栄西と建仁寺特別展」 へ。

昨年の秋、たまたま博多の日本最初の禅宗寺院である聖福寺と、京都の建仁寺を訪ねた。

建仁寺では寺宝の俵屋宗達 「風神雷神」 も、海北友松の襖絵も、みな複製だった。

「かいほうゆうしょう」 かっこいい号だし、作品も禅宗にふさわしい颯爽とした迫力があり、一度で虜にされた。
が、目玉の宗達も友松も複製と知ってガッカリ。
海北友松の 「雲龍図」 の実物を見たのは、先月訪れたエール大学美術館の屏風展であった。


近江浅井氏の家臣の子として生まれた海北友松は父親の戦死をきっかけに禅宗に帰依し、狩野派で学ぶ。

安土桃山から江戸時代初期にかけての豪華絢爛が一世を風靡する中で、友松の作品が禅風にふさわしく剛毅なのは、 主家滅亡という戦国乱世の負の面を目の当たりにして来たからだろう。

ちょうど光琳の 「風神雷神図屏風」 も同時公開されていて、両者を見比べることが出来た。

宗達は国宝、光琳は重文、先輩の貫禄は見事だった。

大山行

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                           左上が大山の山頂
 
 
 
何年か振りで、GW らしいことをしようと思い立った。
今しか出来ないこと、今までやり残して来たことをやろうと。

すると、昔から山は好きであちこちの山を訪ね、頂上にも立っているが、自分の足で頂上まで登った山がないことに気付いた。

いま新緑の真っ只中、前から登ってみたいと思っていた丹沢大山国定公園の 「大山」 にチャレンジすることにした。

いま住んでいる神奈川県の南にそびえる大山は、昔から富士山、筑波山に並ぶ関東のランドマークであり、お山に参る大山講は江戸庶民に人気だった。
盆暮れに大山講に参加すれば、借金の取り立てが半年延びたというから面白い。

山の中腹にある大山寺は755年奈良東大寺別当・良瓣が開山、第3世には弘法大師空海が入山、数々の霊所を開いた言い伝えが残る。
 
 
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GW であるため家族連れやグループでにぎわう中、独り侘しく決行したのには2つの理由があった。

50代の内に頂上の一つ位は自分の足で制覇しておくため。

もう一つの狙いは、来月、高松三越で開催する岡本光平・空海展を前に大山を歩き、身をもって山岳修験の片鱗でも味わっておきたいと思ったから。

標高1255メートル、ケーブルカーを使わず急峻な坂を登ること3時間、8000歩で頂上に着いた。

新緑の梢の間からは遥か眼下に相模湾に浮かぶ江の島が見下ろせたが、富士山を見る絶景ポイントでは、青天の中に富士山だけが雲に隠れていたのが残念だった。

山頂の大山阿夫利神社を参拝した後で、見晴台経由で下山。
その頃には左膝が痛みに耐えかねるほど、一段一段の落差が大きい下り坂にダメージを受けた。
 
 
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                         大山山頂では桜が満開


谷側が急激に落ち込む一番の難所に差し掛かると、細い登山道に人が溢れて渋滞していた。
おじいさんと孫が150メートルの谷底に滑落し、レスキュー隊が救助しているためだった。
行楽気分がいっぺんに暗転、山の恐ろしさを痛感。
(今朝の新聞によればお孫さんだけ足の骨折で済んだようだ)
 
同じ日に、同じ山を共感したお互い、ご冥福をお祈りします。

木版画の現在

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GW 最終日、「魅惑のニッポン木版画」 を見るために横浜美術館へ行った。

幕末の歌川国芳から現代作家までの約250点、世界的評価の高い日本の木版画の歴史の流れをたどれる展示が楽しめた。

歌川貞秀 「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」 は、一昨日登った大山を150年前に描いたものであり、自分の歩いた道が克明に描写されていることが確認出来た。

橋口五葉の女性像が魅せる睫毛の微細な表現、伊東深水 「髪」 の顔の描き方に、世界の何処にもない日本人ならではの美意識を見た。

それにしても、あれだけ細い線を彫り出す彫り師のワザの凄さ、まさに神業に等しい。

石井柏亭 「木場」、萬鉄五郎 「ねて居る人」 からは、はっきりとした大正モダンを感じ、 恩地孝四郎 「ダイビング」(上のフォト中央) は昭和という新時代への跳躍そのものを感じた。

水船六洲 「牧神」、馬淵聖 「埴輪と壺と」 のユーモラスなおおらかさに歓心を擽られていると、その先には清宮質文の詩的世界が4点あった。
(「擽」という字、くすぐるは手偏に楽しいと書く字だったとは!!!)

守 洞春の 「新宿の朝」 では、彫刻刀の一彫り一彫りが光そのものとなっている表現の鮮やかさに、目が釘付けになった。

他にも棟方志功や、デザイナー夢二の鋭い才能を感じる作品などあったが、版画の現在へ関心が向かう。

「現代――新たな木版画の表現へ」 というラストコーナーでは、吉田亜世美、風間サチコ、湯浅克俊、桐月沙樹の4人が特集されていた。

その中で桐月沙樹氏 (29) のダンスシリーズが素晴らしかった。(上のフォト 右端)

版木の木口にあらわれる木目自体を有機的な1枚の画像ととらえ、そこに彫るモチーフは2枚目の画像であり、1作品の中に2枚の作品が存在する。

その考え方がユニークである上に、画面がシンプルでありながら豊かなのは、自然の力をうまく引き出しているからだろう。

桐月氏は木版画と人間の間に、自然が存在することを発見した。

絵画も版画も同じ平面の作品表現であるが、桐月氏の作品は決定的に木版画でしか出来ないアートを表現している。

横浜美術館が開館25周年記念として開催した「魅惑のニッポン木版画」 会場のフィナーレを桐月沙樹が飾っている。
ここから版画の新たな未来の扉が開かれることを予告するかのように。



余談だが、開館25周年の歩みを紹介するコーナーがあり、1999年4月の欄には 「国領経郎展」 があった。
このブログの第1回に紹介しているように、国領先生には忘れられない思い出がたくさんある。
当時、画壇を独占していた日洋会で最も人望があり、画壇の良心のような人であった。
その先生から、どうして自分のような輩が可愛がってもらえたのか、いまだに不思議である。
横浜国大の教授でもあった先生は、政財界の人垣に囲まれながらも、そんな付き合いを無視し学生との付き合いを愛した人であった。
その端くれに自分を加えてくださったのだろう。
先生の生涯最大の個展に張り出された作家経歴に、不肖私が作ったものを採用し、画集掲載ともども末尾に(折茂伸彦氏作) とあり、びっくりしたことを覚えている。

15年前、先生と浜岡砂丘に旅した思い出やアトリエで交わした会話が、黄金の砂時計が流れ落ちていくかのように、一粒一粒まぶしく蘇った。

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2014名古屋三越 岡本光平展

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昨年7月の当ブログで紹介させていただいた岡本光平ロシア・バイカル紀行が、いよいよ名古屋でも発表されます。
 
1万年前の人々が彫った岩画の拓本からは、動物や人間の生き生きしたリアルな感動が、彫った人の息遣いとともに伝わってきます。
 
我々のルーツを考える時に、一つは遊牧騎馬民族があります。
大まかにいえば、中央シベリアにいた騎馬民族の西に向かった人たちがトルコ系の人々、東に向かった人たちがツングースの人々となり、日本人の祖先です。
 
最近3冊のユーラシア関係の著作を読み、それら今まで捉えがたかった遊牧民の世界が身近になりました。
 
『遊牧の世界  ~トルコ系遊牧民ユルックの民族誌から~』 松原正毅 中公文庫
1979年から1年間、著者が遊牧民の暮らしに溶け込んだ、文庫で420ページにおよぶ詳細な記録。
大自然の中で家畜と一心同体で生き抜かねばならない過酷な暮らしと、少年少女たちでも羊の400頭くらいは名前を覚えて識別出来る独特の文化など、興味尽きない。
 
『縄文人はるかなる旅路』 前田良一 日経ビジネス人文庫
縄文人の痕跡をさがせばアフリカから南米、オセアニアまで世界中に広がってゆくという未知との遭遇。
その中でアムール川流域に関する記述は、岩画の世界でもあり、興味深く読んだ。
しかし前田氏の博学ぶりには驚くが、実地調査は少なく、膨大な資料の読み込みが見事。
その中でたびたび紹介される人物と本があったので取り寄せた。
 
『ユーラシア野帳』 加藤九祚 恒文社
この本に巡り合えたのは、偶然ではなく必然と思えるほど嬉しい感激があった。
「岩画」 のパイオニアであるオクラードニコフと公私にわたる付き合いがあり、「黄金のトナカイ」 の翻訳もしている加藤氏の、フィールドワークそのものを著述した文章や研究者に対する気遣いには心を打たれる。
一昨年の春に行ったアムール川サカ・チャリアンの紀行やモンゴル・アルタイなど、岩画の世界が眼前に迫ってきた。
 
自分自身も8年前からモンゴル、シルクロードのアルタイ、トルコ、ロシア・シベリアと歩いてきて、それらが 『ユーラシア野帳』 の中に収められていることは幸せだった。
 
岡本光平岩画展に臨む中で、ユーラシアの遥かな景色を、ご来場の皆様と分かち合えることが出来たら幸いです。
ご来場お待ちしています。
 
 
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山本兼一

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高松三越から名古屋三越に移動。
高松に1週間いたら、さぬきうどんは5回、骨付き鳥は3回。
気温が高かったので、おろしぶっかけにも初挑戦。
本場のさぬきうどんのコシの強さを改めて味わった。


明日から始まる名古屋三越 岡本光平展の搬入前に丸善を訪れて驚いた。

「緊急出版 追悼 山本兼一 銀の島」

その文字に我が目を疑った。

昨年末から今年の初めにかけて夢中になって読んだ作家だった。

解説によれば2月13日に亡くなったという。 
 
17日に 「火天の城」 を読み終わっている自分は、 その面白さにこれからの執筆が大いなる楽しみと思っていた頃である。

凄い器量、コシのある小説を書く作家と思っていた上に、自分と同じ年であるため熱い期待を寄せていた分、残念である。

2014名古屋三越 岡本光平展2

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名古屋三越の特選画廊に岡本光平作品が40点余並びました。

昨日の初日、待ち焦がれていた人がたくさん来られました。

「前回見てとても面白かったので、次はいつ開かれるのかずうっと待っていました。」

2年ぶりの開催をそんな気持ちで待っていてくださった人々のことを思うと、作家が制作に情熱を傾けた甲斐があったというものです。

今回はエール大学美術館に収蔵された飛白屏風の姉妹作品 「風響」 と、ポップアートの新作屏風 「彩雨」 が出品されています。

「彩雨」 の前ではほとんどの方が、感嘆の声を上げています。

会場の出口でお帰りになる人の会話に耳を傾けていると、
「最初のうちは作品に面喰らったけれど、一周見ているうちに目が馴れたというか、最初の作品の良さもわかるようになったわね」
そんな嬉しいやり取りが聞こえて来ました。

昨日は中日新聞の取材もありましたので、週末が楽しみです。

●ギャラリー・トーク 「シベリア大自然の岩画1万年」 5月24日、午後2時~3時

●書のリクエスト・ライブは26日まで毎日、午後1時~6時まで開催。

2014名古屋三越 岡本光平展3

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昨日の当欄で述べた、「 最初のうちは作品 (の奇抜さ) に面喰らったけれど~」 と、お客さまから指摘された作品が写真の2点。

会場のレイアウトは個展のコンセプトをお客さまに伝えるために、最大のインパクト、メッセージを込めた作品を入口にプロローグとして展示して、お客さまをお迎えします。

左側の1点目は 「誕 生 歓 喜」、全ての生あるもののいのちの原点、誕生の奇跡、パワーを放つ赤はラオスの織物です。

この作品を最初に見た時、目の前に浮かんだのは、「赤心」 という言葉でした。

赤心=ありのままの心、まごころ。

昨年の秋にお孫さんを出産なさったという娘さんのお母さんが、新しいいのちを迎えた歓び、孫の成長を願う気持ちをこめて、お孫さんにプレゼントしたいとお求めくださいました。

お祖母ちゃんのこの思いが、いつの日かお孫さんに伝わる日の来ることを思うと、こちらも喜びに包まれずにおれません。

まさに、孫を思う熱い熱い赤心、感動がこみ上げる一瞬、こんな場面に立ち合える幸せ!


2番目の作品は「龍」、名古屋の中日ドラゴンズ・ファンに向けて書かれた作品です。 

沸き上がる雲間からたち現れるのは、眼光烱々、口から火炎を吐くドラゴン。

あるお客さまは、ドラゴンの眼に見つめられているみたいとおっしゃっていました。

この仕事をしていて日頃感じていることなのですが、アートを買いたくなる動機は人それぞれあっても、幸せなとき嬉しいときに、または誰かに喜んでもらいたいときに、アートを買いたい心情になるのではないでしょうか。

逆に幸せでない時に、アートは心の外に避難しているような気がします。

昨日、改めてそんな思いを味わいました。

びっくりするほど遠方から会場にやって来られたその女性は、
「岡本先生、今度結婚することになりました!」
と満面の笑顔で報告。

そして2番目のドラゴンズ作品を見るや、
「素敵なプレゼントを見つけたので、おみやげを楽しみにしていて!」
と電話をかけました。

フィアンセは辰年、2つ年上の彼女はアラフィフ、その弾む声にこちらの気持ちも弾んだのは言うまでもありません。

こうして人様の幸せのお裾分けに預かれることも、画商という仕事の喜びの一つであります。

2014名古屋三越 岡本光平展4

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名古屋三越の岡本光平展にご来場くださいましたみなさま、大変ありがとうございました。
土曜日のギャラリー・トークは大勢のお客さまで会場が埋め尽くされました。

「岩画1万年の世界」 にタイムトリップした喜びの体験を語ってくださるみなさまに、また次の新たな岡本ワールドをご紹介したいと意欲が沸きました。

帰りがけの人に会場で一番好きな作品を聞くと、一番人気は 「花」 でした。
 
 
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今回、特にご紹介したい作品は、リクエスト・ライブで注文を頂いた表札です。

目の前で書かれた、一瞬の判断による 「間」 と 「バランス」 の表現。

左右対称で単純な6本の線からなる 「小川」。

自然の中で森羅万象を吞み込み、大地を流れ行く姿は見飽きることがありません。
 
 
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