正月休みに高校時代からの宿題を果たした。
梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」を読みかけて中断、今回手にするまでに45年経っていた。
出版から2年後の1973年の秋、高校2年の時に日本史の教師が顔を紅潮させながら興奮の面持ちで「歴史を覆す大変な本を読んだ!」と、授業そっちのけでしゃべったのを今も鮮明に覚えている。
その直前に京都・奈良の修学旅行に行き、法隆寺を見て来たばかりだった。
すぐに本を買って読み始めたが、自分の記憶にある大和まほろば斑鳩の地にそびえる美しい伽藍のイメージとは余りにかけ離れていた。法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮める寺という内容に馴染めずに、途中棄権したのだと思う。
以来、隠された十字架という魅惑的な文字が焼きごてのように頭に焼き付いていたが、その後たびたび法隆寺を訪ねながらも読む気が起きないでいた。
梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」を読みかけて中断、今回手にするまでに45年経っていた。
出版から2年後の1973年の秋、高校2年の時に日本史の教師が顔を紅潮させながら興奮の面持ちで「歴史を覆す大変な本を読んだ!」と、授業そっちのけでしゃべったのを今も鮮明に覚えている。
その直前に京都・奈良の修学旅行に行き、法隆寺を見て来たばかりだった。
すぐに本を買って読み始めたが、自分の記憶にある大和まほろば斑鳩の地にそびえる美しい伽藍のイメージとは余りにかけ離れていた。法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮める寺という内容に馴染めずに、途中棄権したのだと思う。
以来、隠された十字架という魅惑的な文字が焼きごてのように頭に焼き付いていたが、その後たびたび法隆寺を訪ねながらも読む気が起きないでいた。
ところが最近になって、あの有名な一万円札に描かれた聖徳太子の絵は本人ではないとか、聖徳太子は実在しなかったという本まである。いったいどうなっているんだ?
縁あって近年、大阪の四天王寺さんに参拝することも多くなり、その度に「以和成貴=和をもって尊しと成す」を心に描いて手を合わせてきた聖徳太子の本当のことを知りたくなっていた。
そして昨年末、香川県さぬき市にある四国霊場86番札所「志度寺」を訪ねる機会があった。
志度寺山門
奈良天平文化の花を開いた聖武天皇と光明皇后の父、藤原不比等が土地の海女との間にもうけたのが藤原四兄弟の二男房前(ふささき)だった。
その藤原房前ゆかりの志度寺の境内を歩きながら、「隠された十字架」は聖徳太子の祟りで藤原四兄弟が相次いで亡くなり、藤原氏を震え上がらせた書であったことを思い浮かべていた。
志度寺の近くには琴平電鉄の「房前」駅もあったが、小さな無人駅で日本の古代史の主役ともいえる親子を偲ぶよすがはなかった。
そんな縁が重なり、「隠された十字架」を読める気になった。
小説家や歴史家の本とは異なり哲学者の文体は、常に梅原猛本人が目の前であの独特の身ぶり手振りで豪速球を投げ込んでくる凄まじさとの一騎打ちの感がある。
今回はそれを受け止め、噛み砕き、自分が見てきた映像と擦り合わせ、新たな発見に導かれるスリリングな読書となり、松の内を費やした。
飛鳥時代の遺産であるとされていた法隆寺が、実はその後に台頭してきた藤原不比等の政略による山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)はじめ聖徳太子一族25人を虐殺した舞台であり、藤原政権がそれを隠蔽していく数々の証拠を暴き出す手口は、まるで自分が高校2年の当時活躍していた名探偵ポアロか刑事コロンボかというくらい見事で鮮やか。
法隆寺では毎年太子の魂を慰める聖霊会が行われてきたが、50年に一度「聖霊会大会式」が開かれる。次の大会式は2021年。
梅原猛は1971年の大会式に立ち合って、本書を書く運命的なものを感じたという。
自分は宿題が長引いたお陰で、あと3年で立ち合えることになった。
法隆寺中門
夢殿
会津八一