第2日目(4月12日)
この日は旅の醍醐味を盛り沢山に味わう日になった。
朝、揚州八怪記念館へ。
余談になるがルネサンスはイタリアで、印象派の絵はパリで見たい、コンテンポラリー・アートはニューヨークで、エジプト文明の遺産はエジプトで見たいと常々思って来たから、そのようにして来た。
それらの美の結晶を生み出すために人間が格闘した現場で作品を見ることで、作者との対話も深まる。
今回初めて中国の書を現地で見るに際して、大変期待があった。
今までがそうであったように、こちら側から理解に努めなくても、向こうから「よく来たな。どうだ見てくれよ!」と、時空を超えて語りかけてくれるのだ。
清朝の乾隆帝の時代に活躍した文人墨客たちの作品に心の目を開かれた。
この日は旅の醍醐味を盛り沢山に味わう日になった。
朝、揚州八怪記念館へ。
余談になるがルネサンスはイタリアで、印象派の絵はパリで見たい、コンテンポラリー・アートはニューヨークで、エジプト文明の遺産はエジプトで見たいと常々思って来たから、そのようにして来た。
それらの美の結晶を生み出すために人間が格闘した現場で作品を見ることで、作者との対話も深まる。
今回初めて中国の書を現地で見るに際して、大変期待があった。
今までがそうであったように、こちら側から理解に努めなくても、向こうから「よく来たな。どうだ見てくれよ!」と、時空を超えて語りかけてくれるのだ。
清朝の乾隆帝の時代に活躍した文人墨客たちの作品に心の目を開かれた。
揚州博物館へ。
他の文明では黄金が一番価値あるのだが、中国で最も珍重されたのは「玉(ぎょく)」である。
ダイヤモンドに次いで硬いので割れないが、それが割れるような最悪の事態を「玉砕」ということを岡本光平先生が解説。
人の全身を玉衣で包んだ展示は、ずいぶん高貴な人の埋葬姿であることが分かる。
昼食を挟んでスケジュール表にはなかった、自分の最も好きな分野の見学が次にあることを知った。
その前に腹ごしらえ、ランチでも盛大な中華料理のフルコースを楽しんだが、ちなみに中国四大料理の特色は、
北京料理 油っこくて、遊牧民の調理法
四川料理 暑い土地なので辛い調味料
広東料理 食材豊富でスープが得意
揚州料理 日本では上海料理というが、醤油や砂糖を使うので日本人の口に合う
朝食以外、昼夜8回連続して中華料理を食べ続け、皿の数に圧倒されながらも堪能した。
サプライズは地下王墓の見学だった。
薄暗い墓の内部に降りていくドキドキ感は自分にとって、これぞ「世界ふしぎ発見!」、エジプトの王家の谷以来の興奮を味わった。
「漢広陵王墓」は漢武帝の息子・劉胥(りゅうしょ)のもので、妃の陵墓と並んでいた。
もともとは45キロメートルほど離れた辺鄙なところで、1979年に発見されたのだが、観光に便利な地に移築再現したのだという。
いつかは中国皇帝の陵墓を見たいという夢が実現した。
一番興味深かったのは、墓が石棺墓ではなく木棺墓だったこと、さらにそれが腐らずに2000年前のまま残っていること。
柏を立方体のブロックに伐り積み上げた壁で、地下宮殿のような玄室が取りまかれていた。
この墓に眠っていたのが、揚州博物館で玉衣をまとって眠っていた広陵王だった。
いつか見たいと思っていた憧れのものが、突然目の前に現れる。つくづく人生って面白いと思った。
王墓のとなりに「大明寺」があった。
日本にゆかりの中国人僧・鑑真和尚が住職をしていた寺であり、「天平の甍」の舞台である。
つまり有名な大明寺と風光明媚で人気の痩西湖のそばに王墓をもって来たのだ。
奈良の唐招提寺を模して建てられた鑑真記念堂に、鑑真座像がおられた。
838年、最後の遣唐使として大海を渡り、世界三大旅行記のひとつ「入唐求法巡礼行記」を著した円仁慈覚大師も、鑑真和尚の直系の弟子として大明寺に足跡を印している。(マルコ・ポーロ「東方見聞録」、玄奘三蔵「大唐西域記」)
朝の時を告げる鼓楼と夕方に鐘を鳴らす鐘楼の間に九重塔がそびえていた。
この天を衝くような高い塔は、円仁が仰いでから5年後の843年に大火で焼失してしまった。
その後も再建されるが何度も戦禍にあい、太平天国の乱や文化大革命でも徹底破壊されていることを思うと、奈良の唐招提寺の金堂や鴟尾(しび)は奈良時代のものが今も残っている日本をありがたく感じずにはいられない。