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Channel: 思いのしずく
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悠久の中国・江南の春旅 4

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第3日(4月13日)
揚州で泊まったホテルの前を京杭大運河が流れていた。
その対岸の正面に「東関」という門が立ち、その先に城壁の入口があった。
中国の河川は西から東へ流れるため、南船北馬という言葉もあるが、隋の煬帝は南北に河川をつなぐ大運河工事にとりくみ、北京から杭州まで2500キロメートルの大動脈を建設した。
そのお陰で揚州は繁栄を極め、煬帝もしばしば揚州に遊んで享楽に耽ったが、重労働に苦しんだ民は隋に反乱する。
代わって興った唐もこの運河で繁栄するのだが、隋は唐のために働いて滅んだようなものだった。
円仁の「入唐求法巡礼行記」は揚州の国際都市ぶりに驚嘆したことを、「遣唐使の通訳として同行していた新羅人の他に、アラブ人やペルシャ人、チャンパ王国(ベトナム人)がいて、寺の修復に寄進した」と書いている。
揚州の街を歩いていて感じたことは、旧市街では建物の高さを制限しているので、街並みが落ち着いていた。そして中国のイメージとは違って街中にゴミが落ちていない、きれいな中国が意外だった。
運河には緑色した水がたっぷり流れ、柳の枝が風にそよぐ風景は、1200年前へと誘う。
804年、唐の都西安をめざす空海もこの運河を往った。
司馬遼太郎「空海の風景」は、遣唐使と空海一行を次のように記述する。
「水上で日をかさねて、揚州に達した。
“ぜひ、揚州を見たい”
と、橘逸勢(はやなり)がいったかどうか。唐の詩人は揚州の富裕と繁華を恋い、老年をこの町で送りたいとねがっていることを逸勢は当然知っていた。が、一行はさきをいそぐために揚州の見物どころではなく、水上からはるかに、岸辺に冬枯れはじめている楊柳、そのむこうの磚塔(せんとう)、富商の別墅(べっしょ)らしいいらか、そしてやがて黒ずんだ城壁などを望む程度でもって遊心を癒さざるをえなかったかもしれない。」
まさにそのままの場景を、ホテルの前の運河の向こう岸に見ることが出来た。
空海の代わりに自分らが東関の門をくぐり、城門の中に分け入り、市場で異国情緒に遊んだ。


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                                 船着場


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                                  東関


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                              揚州を訪れた煬帝


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                          朝早く人力シャッターを開ける


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ホテルの窓から街を見下ろしていた時に、公園の一角にある屋根が気になっていた。
そこに入って行くとウイグル人的な顔立ちのご婦人が案内してくれた。
中は公園ではなく、イスラム寺院の広い施設だった。
メッカに向かって祈る礼拝所があり、1275年に亡くなったモハメッドの16世プハーディーンの聖体も拝めるようになっていた。
建物全体が中国風ではなく幾何学的なのだが、うまくカモフラージュされていて、一見イスラムらしくなかった。
イスラムモスクのことは「清真寺」として唐代からあるが、本物を見ることが出来た。
運河の船着き場には煬帝が運河の完成を祝う巨大なレリーフがあり、マルコ・ポーロの記念館もあった。

この日の午後、江蘇省揚州から南の安徽省黄山までバスで6時間の旅だった。
車内で岡本光平歴史講座が熱く語られたのは言うまでもない。


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