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Channel: 思いのしずく
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最後の砦

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河北新報によると、〈震災を読む・厳選30冊〉 が仙台市にある出版社の編集者3人によって選ばれ、
発表された。
その中で読んだ本は1冊しかなかった。
杉山隆男・著 「兵士は起つ 自衛隊史上最大の作戦」 

あの大震災の前日、3年前の3月10日まで、仙台の藤崎デパートで働いていた。
川崎市へ 帰宅した翌日に大きな揺れを経験し、被災地の人々の逃げ惑う姿に天を恨んだ。
翌日から高松へ行き、さらに下関まで高速バスで移動中、高速道を東へ向かう自衛隊の車列に目を見張った。
白地に黒く災害派遣の文字が書かれた横断幕を掲げながら、どこまで行ってもトラックやジープが途切れることなくすれ違って行った。
日本列島を北上する自衛隊を頼もしく見送ったが、その後の彼らを何が待ち受けていたのか、、、

今回、仙台滞在中に 「兵士は起つ」 を読みながら、被災者の最も辛い状況に全身全霊で寄り添い、救出と捜索に尽くした隊員たちのすさまじい体験に戦慄した。
まさに第一級の戦記ものを読んだ気がするのは、人間の善も悪もすべてさらけ出された “戦場” が舞台だったからに違いない。



宮城県多賀城市に本拠を構える自衛隊第22普通科連隊の國友昭一連隊長は、赴任後の一番の仕事として99、9%の確率で訪れる 「宮城県沖地震」 に備えていた。

「連隊がすぐ動ける環境づくりに奔走し、隊員たちには彼らの活動舞台となる地域に入って、体で地理を覚える訓練を課してきた國友連隊長だったが、さすがに駐屯地が津波に襲われ、自らが被災者になることはほとんど考えていなかった。」

一般市民ではなく非常時対策のプロフェッショナルたちの想像すら及ばない、千年に1度の最悪の事態が起こったのだ。

災害地に向けて出動した隊員たちは、自分の両親や嫁の安否確認をすることも出来ないまま、被災者の救助に没頭した。

「人にはそれぞれの事情がある。だが、極限の中にあって自衛官はそうしたそれぞれを越えた存在でなくてはならなかった。個であることを自らやめる存在だ。」

「K三曹は当初、津波による被害が甚大な地区であればあるほど、やり場のない怒りやさまざまな要求を隊員にぶつけてくる住民は多いはずだと思い、それもまた仕方ないかと、どんな言葉をかけられても甘んじて耐え忍ぶつもりでいた。
ところがじっさいは違っていた。津波に家一階をこれでもかというくらいかき回され、路地には車がうずたかく積み上げられ、遺体が建物の内と外に横たわり、逃げ遅れた人たちを隊員がおんぶしたり小舟でピストン輸送している地区で、 『水はどうした、食べ物は・・・』と詰め寄ってくるような住民に、K三曹はひとりも出会わなかった。失ったもの、奪われたものが大きすぎて、涙が涸れるように、何がほしいという欲求さえもはやなくなってしまったのかもしれない。要求が出てくること自体、まだ気持ちに余裕があるからとすれば、その余裕も残っていないくらい彼らは極限の淵に置かれていたということになる。
にもかかわらず、もっとも過酷な目にあっていたそんな彼らの口から、『食べ物・・・』の代わりに出てきた言葉は、自分たちを背負って泥の海の中を渡ってくれた隊員への感謝でありねぎらいだった。
『ありがとう』『ご苦労さん』『すまないね』
ご苦労なのはおばあさんたちなのに、とK三曹は思いながらも、そうした感謝のひと言をもらっただけで、再び冷たいぬかるみの中に入っていく気力がどこからか湧き上がり、疲れた体にみなぎるように思えたこともたしかだった。
これに対して、津波の濁流が運よく押し寄せて来なかった地区で、隊員たちは、家は無事でも電気水道のライフラインが止まり、食料などの救助物資もいっこうに届かない中、不便な被災生活を強いられている人々から、『自衛隊は手ぶらできたのか』 と嫌味を言われたりしていた。
収容の追いつかない遺体が手つかずのまま、そこかしこに残されている町には、別の意味で重苦しい緊張感が張り詰め、殺気が漂っていた。その殺気を肌で感じとった隊員はひとりや二人ではない。」

略奪狼藉に歩く人の群れ、そこはまさに戦場であり、想像を絶する光景も繰り広げられていたのだ。

「津波の濁流に町がまるごと呑み込まれていく地獄絵図を眼前に、隊員たちは言葉を失って立ちつくしながらも、ひるむことはなかった。家族と連絡がとれなくても安否が気になるあまり持ち場や任務を放り出して肉親のもとに駆けつけようとする者は誰ひとりとしていなかった。浮き足立つこともなく、隊員たちは命令のままに動き、上意下達の組織に一分の乱れもなかった。いや、命令以前に、いまこの危急のときにあって、ぬかるみを進み、瓦礫を乗り越え、助けを求めている幾多の人々の中に、〈危険を省みず〉 まさに 〈身をもって〉 入っていけるのは自分たちしかいないことを、誰に言われることもなく彼らは自覚していた。その意味で、組織として軍隊ではあっても、ひとりひとりが自らの 〈責務〉 を骨身にしみこませている、やはり彼らは自衛官だったのだ。」


未曾有の危機の前に身を挺し立ちはだかる自衛隊は、日本人と日本を守ってくれる「最後の砦」であった。

山陽道を粛々と北上する災害派遣の隊列に、早く駆けつけ皆を助けてくださいと、心の中で叫びながら熱い涙が溢れてから3年。

現場に赴いた隊員たちが成した史上最大の作戦に、赤の他人同士であっても人間と人間の間には本当の 「絆」 が存在することを教えられ、何度も文字が滲んだ。

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