トナカイに乗る少数民族の女性
シベリアまで出かけて、何を見たのか。
見えるものは一通り見たが、最初にシベリアは抽象画のようだと述べたように、見えないものを感じる旅だったと思う。
我々の遠い祖先が生活の基盤にしていたシャーマニズムの世界。
それを垣間見ることが出来た。
10年ほど前、山形県鶴岡市の 「ギャラリー・まつ」 で、岡本光平個展を開催した時に、先生がギャラリー・トークで出羽三山の修験道について講演した。
その会場の最後列に、体格の立派な偉丈夫がパイプイスに仰け反るように座っていた。
後ろ姿からは、他所者が出羽の修験道を語るなど、どれほどのもんかい、という威勢が感じられた。
講演が進むにつれ、偉丈夫の背骨がまっすぐになり、終いには前傾姿勢になって、最後は誰よりも大きな拍手をしていた。
講演が終わると、その方は出羽三山の修験者と名乗り、自分達以上に修験道のことを理解している岡本先生に敬服しました……と語られた言葉が今も耳に焼き付いている。
岡本先生が我々に見せたかったシベリア・シャーマンの世界を、バスの中や夜のミーティングで熱く語った。
そのエッセンスの一部をここで紹介したい。
岡本光平30歳位の頃、韓国を代表するシャーマンと韓国内の祭りを訪ね歩き、ついには韓国シャーマンになることを薦められるほど素質を見込まれたという。
天のエネルギーを地に降ろす書家の所作も、シャーマンの儀式に通じるような気がした。
シャーマンは太鼓で神と語らい、書家は筆で天霊地気を結ぶ。
岡本光平が研鑽して来た密教、その源流となる修験道、さらにシャーマニズム、それは自然崇拝を尊んできた日本人の原型に迫るものである。
シベリア・シャーマニズムを知ることも、我々の遠い祖先を訪ねる旅の、もう一つの側面であった。
そこで岡本光平古代史学に熱がこもる。
シャーマンの頭やコスチュームには鹿の角が飾られている。
それは岩手県花巻の鹿踊 (ししおどり) のルーツを思わせる。
平安時代に定められた延喜式では、全国の神社の中から格式の高い3つの 「神宮」 を定めている。
伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮。
このうち2つが東国の、利根川を挟んだ地に祭られていることに大きな意味がある。
鹿を追って移動した北方狩猟民の文化が、シベリアから北海道、東北、関東の利根川辺りまで来ていた。
奈良春日大社は藤原氏の氏神を祀る社であるが、氏神は鹿島神 (武甕槌命 タケミヤツチノミコト) が鹿島神宮から白鹿に乗って平城京に来たことに由来する。
藤原氏の祖である中臣氏の出自も鹿島・香取神宮のある利根川下流域である。
東国で集められた防人(さきもり) 達が軍事訓練を終え、鹿島神宮で無事を祈願してから西国に向かって旅立ったことを 「鹿島立ち」 と言った。
帝国日本海軍の旗艦 (天皇が座乗) は戦艦鹿島だった。
見えるものは一通り見たが、最初にシベリアは抽象画のようだと述べたように、見えないものを感じる旅だったと思う。
我々の遠い祖先が生活の基盤にしていたシャーマニズムの世界。
それを垣間見ることが出来た。
10年ほど前、山形県鶴岡市の 「ギャラリー・まつ」 で、岡本光平個展を開催した時に、先生がギャラリー・トークで出羽三山の修験道について講演した。
その会場の最後列に、体格の立派な偉丈夫がパイプイスに仰け反るように座っていた。
後ろ姿からは、他所者が出羽の修験道を語るなど、どれほどのもんかい、という威勢が感じられた。
講演が進むにつれ、偉丈夫の背骨がまっすぐになり、終いには前傾姿勢になって、最後は誰よりも大きな拍手をしていた。
講演が終わると、その方は出羽三山の修験者と名乗り、自分達以上に修験道のことを理解している岡本先生に敬服しました……と語られた言葉が今も耳に焼き付いている。
岡本先生が我々に見せたかったシベリア・シャーマンの世界を、バスの中や夜のミーティングで熱く語った。
そのエッセンスの一部をここで紹介したい。
岡本光平30歳位の頃、韓国を代表するシャーマンと韓国内の祭りを訪ね歩き、ついには韓国シャーマンになることを薦められるほど素質を見込まれたという。
天のエネルギーを地に降ろす書家の所作も、シャーマンの儀式に通じるような気がした。
シャーマンは太鼓で神と語らい、書家は筆で天霊地気を結ぶ。
岡本光平が研鑽して来た密教、その源流となる修験道、さらにシャーマニズム、それは自然崇拝を尊んできた日本人の原型に迫るものである。
シベリア・シャーマニズムを知ることも、我々の遠い祖先を訪ねる旅の、もう一つの側面であった。
そこで岡本光平古代史学に熱がこもる。
シャーマンの頭やコスチュームには鹿の角が飾られている。
それは岩手県花巻の鹿踊 (ししおどり) のルーツを思わせる。
平安時代に定められた延喜式では、全国の神社の中から格式の高い3つの 「神宮」 を定めている。
伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮。
このうち2つが東国の、利根川を挟んだ地に祭られていることに大きな意味がある。
鹿を追って移動した北方狩猟民の文化が、シベリアから北海道、東北、関東の利根川辺りまで来ていた。
奈良春日大社は藤原氏の氏神を祀る社であるが、氏神は鹿島神 (武甕槌命 タケミヤツチノミコト) が鹿島神宮から白鹿に乗って平城京に来たことに由来する。
藤原氏の祖である中臣氏の出自も鹿島・香取神宮のある利根川下流域である。
東国で集められた防人(さきもり) 達が軍事訓練を終え、鹿島神宮で無事を祈願してから西国に向かって旅立ったことを 「鹿島立ち」 と言った。
帝国日本海軍の旗艦 (天皇が座乗) は戦艦鹿島だった。
アルタイ、モンゴル、シベリアの岩画に一番彫られている鹿にまつわるエピソードが、日本の歴史にも深く関わっていることを学んだ。
我が国のキーポイントになぜ 「鹿」 がいるのか?
アイヌの人々だけでなく、古代東国には鹿をトーテムとする北方狩猟民族の血が濃く流れており、その象徴が鹿島、香(鹿)取両神宮であったのだ。