大学時代に流行った「青葉城恋唄」が、北関東の片田舎で育った青年に、見知らぬ東北の中心地・仙台の美しさをさまざまに想像させた。
その後、自分の人生がかくも深く長く仙台とのご縁を結ぶことになろうとは、思いもしなかった。
井上ひさし「青葉繁れる」の舞台として、街を行き交う女性はみなマドンナのような人と憧れた杜の都。
そしていつか行きたいと願っていたのが嘘のように、20年前から年に4回、藤崎デパートの画廊に通うようになった。
1回の出張が最短8日間の滞在になるので、通算2年近く仙台で暮らした計算になる。
全国あちこち出張続きの旅暮らしだが、仙台は一番お世話になってきた “わが街” であり、逢っても逢っても、また逢いたくなる人がたくさんいる街である。
奇しくも4年前の3月10日まで、藤崎のギャラリーで仕事をしていた。
その1週間の間にも様々なお客様との出会いがあり、10数年間にお世話になってきたたくさんの方々と歓談をして帰京した。
翌3月11日、事務所のテレビで、未曾有の大震災に見舞われる被災地からの報道を見た。
知っている限りの方々のお顔を思い浮かべながら、ご無事を祈った。
さらに見知らぬ人びとの無事と救いを祈らずにいられない状況が、次々に舞い込んだ。
たった1日前、絵を買ってくださったお客様の喜びの表情が、まだ目に焼き付いていた。
その方がお住まいの住所が映し出されているテレビ画面の状況の、なんと恐ろしかったことか、、、
藤崎デパートとは別に、宮城県女川町の「本のさかい」さん主催の絵画展にも毎年通っていた一時期がある。
震災後、半年経ってようやく仮設住宅を訪ねあて、お見舞いすることが出来た。
町全体が跡形もなく流された現場を目の当たりにして、それまで経験したことがないショックにわが目を疑った。
毎年、絵画展を楽しんでくださった人びとの暮らしの姿が、跡形もなく流され失なわれていた。
みんなが幸せに生活していた町並みが、全て消えてなくなってしまうことが信じられず、初めて津波の恐ろしさを肌で感じた。
昨年の秋、銀座のギャルリ・サロンドエスさんから、耳寄りな話を頂いた。
耳寄りというのは、もう20年余、宮城県の皆さま方にお世話になってきた自分としてご恩をお返しすることが出来ないものか、と思い続けてきたからである。
芸術を通して人の輪を広げようと、身をもって実践されている先輩の広い人脈の中から、天野寛子先生の存在を教えられたのだ。
天野先生は「東日本大震災を記憶し続けるために」と一針に復興の祈りをこめたししゅう展を陸前高田、神戸、高知、広島、沖縄、東京、ニューヨークで開催して来られた。
先輩から私に課せられたミッションは、5年の節目の3.11に、最も被害が大きかった仙台でこのイベントを開催することだった。
※上のししゅう作品「夕焼け」は今回出品されません。
天野寛子ししゅう画「東日本大震災2-祈り」