去年の3月は仕事明けに高野山に登りました。麓の九度山から22キロの遍路道を。
いま頃は雪も深く困難な状況と思われますが、今年も高野山へ参りたいと思わせる記事を読みました。
読売新聞「時代の証言者」に、かねてから注目していた和太鼓奏者の林英哲さんが登場。
連載の第27回に大変興味深いことが書かれていました。(以下抜粋)
寺に生まれて、子供の頃は小僧も務めましたが、特に仏教を学ぶことなく育ちました。自分から仏教に興味を抱くようになったのは、佐渡での11年間の集団生活の中です。
集団時代のいちばんつらい時期に、司馬遼太郎さんの「空海の風景」を読みました。
生身の青年として描かれた空海に、自分の経験と通じるものを感じて親近感を持ちました。
太鼓を打って集中すると、巨大な時間のトンネルの中を行くような感覚があったり、自分の姿を真上から見たりと、日常とはかけ離れた感覚になったことがあるのです。
幻覚の一種でしょうが、高野山で修行すれば何かわかるのではないか思い、30歳で集団をやめた時に、高野山行きを決めました。
日本舞踊の師匠の強い反対でとどまりましたが、独奏者になってからも、きつい連打のさなかに、大きな光に包まれ、宇宙意思のような幻聴が聞こえた。人には言えませんが、救われた気持ちになりました。
独奏者として歩き始めると、僕は社会の中で自分の立ち位置がよくわからなかった。祭りや伝統とは違う形で太鼓を打っているのは社会の中にうまく入り込めないことも一因です。
漂泊の俳人、山頭火や西行といった人たちの生き方にリアリティーを感じ、やがて孤高の美術家をテーマにするようになり、その人たちの背景にある宗教観の大きさにも気付きました。観阿弥や世阿弥のよう芸能者も、仏教に帰依した人々だった。おこがましくも、そういう人たちの生き方を身近に感じたのです。(以下、略)
巨大な和太鼓のドン、という虚空を震わす響きが好きです。
太古から人類が神へ捧げてきた祈りの力を感じます。
林英哲さんの修行にあらわれる現象の中に、人類の壮大な営みを感じました。