世界を街歩きする番組が増えて、特別の観光地でなくても見知らぬ国の、見知らぬ裏路地に暮らす人の生活を垣間見ることが出来る。
どこへ行っても言葉や肌の色が違っても、人間としての共通項が多いことが嬉しい。
ところがガルシア・マルケスの小説の舞台は、全くの未知の世界に紛れ込んだように面食らった。登場する人々の誰とも意思の疎通が計れない。これぞ地球の裏側ということか。
テレビの演出に乗せられて楽天的に思考することに慣らされた頭脳に、衝撃のごとく向こう側の世界を突き付けられた。
ラテンアメリカの太陽に照らされた世界でありながら、迷い込んだら戻ってこれない、光のない闇の世界をさ迷うような体験だった。
コロンビアの田舎町の路地裏に住む一人の老婆ウルスラの存在の大きさ、この世とあの世を行ったり来たり出来る彼女が一族を支配する。
8月1日、今年の暑過ぎる夏をどう過ごそうかと思いながら書店に向かった。
何年も前から手に取りながら、棚に戻して来た「百年の孤独」、登場人物の複雑さが壁だった。
もうそろそろチャレンジしないと、読まずに終わってしまうだろう、それを何とかするラストチャンスだと自分に言い聞かせた。
ノーベル賞受賞の新潮社のカバーも好きだったけど、今回の墨のカバーデザインの格好よさにも惹かれた。
最後の一押しは若い画家さんから頂いた焼酎「百年の孤独」、酒造会社の若社長が社運を賭けた起死回生の商品に作品のタイトルを命名したいとガルシア・マルケスに直談判して名付けた酒を、本を読まずに飲むわけにはいかない。
アルコール度数40%、日々更新する最高気温41度、おあつらえ向きの熱風。
猛暑の8月前半、仕事のない孤独の日々に無聊を慰めるつもりが、ただただ時間を潰すだけで終わった。南米の歴史の多難さ、人間たちのグロテスクさ、不可解さは過剰過ぎるほど綴られるのだが、筋がない物語を読み続ける苦痛に耐える日々だった。
10日もかけて何をしていたのか、熱帯のジャングルをさ迷って、混沌の山を登り、絶望の谷を覗きながらコロンビアの風景を何も見ずに戻って来たような手応えのなさ。
なのに読む前と今とでは、何かが違っている感触がある。ガルシア・マルケスの菌に冒されたことだけは確かだ。
一人ひとりの生の捉えがたい有り様に比べたら、人と人とが結ばれた縁が死後の世界まで繋がっていく表現に真実味があった。
どんなに強烈な出来事であっても、所詮、過ぎてしまえば人の記憶は薄れていくもの、過去はあったのか、無かったのか、記録されたものの中にしかない。記録はほんとの過去のある一面でしかない。そもそも過去にほんとも嘘もない。
読み終えて誇張すぎる文体が喉の奥にこびりついていたが、琥珀色の焼酎で飲み込んだ。
ボトルのラベルの脇に小さな横文字が印刷されているのに気付いた。
ジャズ・ミュージシャンのエリック・ドルフィーの言葉だという。
When you hear nusic, after it's over, it's gonein the air.You can never capture it again.
「あなたが今、耳にした音楽は空中に消えて、再びそれを聞くことはできない。」