埼玉県北本市に北里大学メディカルセンターがある。
病院でありながら、1700点の絵画を収蔵していて、常時350点を飾っている。
「ある女性が “どうしてもこの絵を描いた人に会いたい” というのです。事情を聞くと夫と別れて生活も苦しく、自殺を考えるところまで追い詰められていた時、子供が病気になって病院に連れてきたところ、その絵に出会い、心を動かされ、思いとどまったというのです。
ある末期ガンの患者の方に、“最期をこういう絵のある病院で迎えられることは幸せだ” と言われたこともあります。
これはまさに “ヒーリングアート” なのです。」
月刊美術誌「美術の窓」が新年号から連載をはじめた 「大村智 アートと世界」 に大村先生が語っているエピソードである。
大村智先生を知る人はまだ少ないと思う。
自分はたまたまお世話になっている洋画家の守家勤先生が、大村先生と小学校から高校までの同級生ということで知った。
守家先生の個展を新聞で紹介してもらうために、山梨日日新聞の論説委員長として活躍しているわが大学のサークル仲間に会った時、たまたまノーベル賞の時期だったので、大村先生の話題になった。
幼なじみの守家先生が語る大村先生のプロフィールを簡単に紹介すると、山梨県韮崎市の農家に生まれ、大学卒業後に定時制高校の教師を勤める。
今と違って当時の定時制の生徒は昼間働き、夜も必死で勉学に励む。
そんな姿を目の当たりにした大村先生は、自分の勉強はまだまだ生ぬるいと反省して、東京理科大学大学院へ戻り、さらにアメリカの大学に留学する。
そこでの研究で世界に貢献する発見を為し遂げ、その特許料として入ってくるお金を元に事業展開しているのが北里大学メディカルセンターなのである。
アフリカで難病で亡くなる何百万人の人を救う研究成果が、アートの世界でも人々に救いの手を広げている。
わが友 論説委員長がいうには、大村先生はいつノーベル賞候補になってもおかしくない、地元新聞社として待ち望むビッグニュースなのだそうだ。
山梨県からは、これまでも立志伝の人物が二人出ている。
阪急電鉄・宝塚歌劇団の創業者 小林一三(韮崎市)、電鉄王 東武の創業者 根津嘉一郎(山梨市)。
奇しくも二人とも美術への貢献大である。
大村智先生を故郷の第3の偉人に待望する人が多い。
なぜ山梨県の中心甲府市ではなく、僻村とも言える地が人物を輩出しているのか、それが知りたいと思った。
そして思い当たるのが戦国の雄 武田信玄である。
韮崎市には武田八幡宮があり、武田氏発祥の地であることを思えば、さもありなん。
海のない山国、昔からハングリー精神をバネにしてきた土地ならではの何かがあるのだろう。
最後に科学者大村先生がアートに寄せる思いを。
「20世紀は科学技術が急速に進歩しましたが、心の問題が取り残されました。21世紀は心を大事にする病院が必要です。それにはどういう病院がいいかということでずいぶん議論しました。
私はナチスドイツのアウシュビッツ収容所から奇跡的に生還したオーストリアの医師ビクトル・フランクル博士の、“芸術は人々の魂を救い、生きる力を与えてくれる” という言葉に深く共鳴しました。
そして病院のエントランスホールはコンサートを開けるように設計し、音響効果を考えグランドピアノも用意しました。また、院内の壁には絵を飾ることにしました。
これからの病院は病気を診断し、治療するだけでなく、心を癒す機能があるべきだと考えたのです。
おかげで、メディカルセンターは絵のある病院として広く知られるようになりました。」
大村智(おおむら さとし) 世界的に知られる天然物有機科学者。1935年山梨県韮崎市生まれ。58年山梨大学卒業。75年北里大学薬学部教授、90年北里研究所理事、所長に。2012年文化功労者。現在北里大学特別栄誉教授、日本学士院会員、女子美術大学理事長、韮崎大村美術館館長。
病院でありながら、1700点の絵画を収蔵していて、常時350点を飾っている。
「ある女性が “どうしてもこの絵を描いた人に会いたい” というのです。事情を聞くと夫と別れて生活も苦しく、自殺を考えるところまで追い詰められていた時、子供が病気になって病院に連れてきたところ、その絵に出会い、心を動かされ、思いとどまったというのです。
ある末期ガンの患者の方に、“最期をこういう絵のある病院で迎えられることは幸せだ” と言われたこともあります。
これはまさに “ヒーリングアート” なのです。」
月刊美術誌「美術の窓」が新年号から連載をはじめた 「大村智 アートと世界」 に大村先生が語っているエピソードである。
大村智先生を知る人はまだ少ないと思う。
自分はたまたまお世話になっている洋画家の守家勤先生が、大村先生と小学校から高校までの同級生ということで知った。
守家先生の個展を新聞で紹介してもらうために、山梨日日新聞の論説委員長として活躍しているわが大学のサークル仲間に会った時、たまたまノーベル賞の時期だったので、大村先生の話題になった。
幼なじみの守家先生が語る大村先生のプロフィールを簡単に紹介すると、山梨県韮崎市の農家に生まれ、大学卒業後に定時制高校の教師を勤める。
今と違って当時の定時制の生徒は昼間働き、夜も必死で勉学に励む。
そんな姿を目の当たりにした大村先生は、自分の勉強はまだまだ生ぬるいと反省して、東京理科大学大学院へ戻り、さらにアメリカの大学に留学する。
そこでの研究で世界に貢献する発見を為し遂げ、その特許料として入ってくるお金を元に事業展開しているのが北里大学メディカルセンターなのである。
アフリカで難病で亡くなる何百万人の人を救う研究成果が、アートの世界でも人々に救いの手を広げている。
わが友 論説委員長がいうには、大村先生はいつノーベル賞候補になってもおかしくない、地元新聞社として待ち望むビッグニュースなのだそうだ。
山梨県からは、これまでも立志伝の人物が二人出ている。
阪急電鉄・宝塚歌劇団の創業者 小林一三(韮崎市)、電鉄王 東武の創業者 根津嘉一郎(山梨市)。
奇しくも二人とも美術への貢献大である。
大村智先生を故郷の第3の偉人に待望する人が多い。
なぜ山梨県の中心甲府市ではなく、僻村とも言える地が人物を輩出しているのか、それが知りたいと思った。
そして思い当たるのが戦国の雄 武田信玄である。
韮崎市には武田八幡宮があり、武田氏発祥の地であることを思えば、さもありなん。
海のない山国、昔からハングリー精神をバネにしてきた土地ならではの何かがあるのだろう。
最後に科学者大村先生がアートに寄せる思いを。
「20世紀は科学技術が急速に進歩しましたが、心の問題が取り残されました。21世紀は心を大事にする病院が必要です。それにはどういう病院がいいかということでずいぶん議論しました。
私はナチスドイツのアウシュビッツ収容所から奇跡的に生還したオーストリアの医師ビクトル・フランクル博士の、“芸術は人々の魂を救い、生きる力を与えてくれる” という言葉に深く共鳴しました。
そして病院のエントランスホールはコンサートを開けるように設計し、音響効果を考えグランドピアノも用意しました。また、院内の壁には絵を飾ることにしました。
これからの病院は病気を診断し、治療するだけでなく、心を癒す機能があるべきだと考えたのです。
おかげで、メディカルセンターは絵のある病院として広く知られるようになりました。」
大村智(おおむら さとし) 世界的に知られる天然物有機科学者。1935年山梨県韮崎市生まれ。58年山梨大学卒業。75年北里大学薬学部教授、90年北里研究所理事、所長に。2012年文化功労者。現在北里大学特別栄誉教授、日本学士院会員、女子美術大学理事長、韮崎大村美術館館長。