唐の都を10年間旅した円仁は、「入唐求法巡礼行記」を著した。
7年ほど前、阿南・ヴァージニア・史代さんが旅して書いた「円仁慈覚大師の足跡を訪ねて」を読んだことがある。
高村薫さんは
「ところで、円仁の『巡礼行記』が、期せずして世界史的にも貴重な第一級の歴史資料となっている一方で、空海はその耳目を捉えたはずの中国大陸や長安の風物について、ほとんど何も書き残していない。名文家空海にしては、不思議なことである。」
と疑問を呈して、次のような答えを導き出している。
「もっとも、ついに入唐の夢を果たした三十代前半の青年僧の心身に、唐の風景や文物が何も響かなかったはずはないとすれば、空海はむしろ、あえて個人の感動や興奮を封じ、求法以外には目を向けないようにしたのかもしれない。空海には、そんな堅苦しい一面もある。」
これを読んで、空海の57歳という死が、若すぎたことを思った。
ご本人はもっと長く生きるつもりで、最後の時間で大唐見聞録を書く予定だったのに違いないと想像が膨らむ。
唐から帰国後、 日本の真言密教を確立。
奔走した朝廷工作にも成功し、819年に高野山の建設に着手するのだが、832年に京都東寺を去って高野山に隠棲したあとも、しばしば京の都で国家行事を修めている。
835年、正月に宮中で同法会を営んだが、3月21日に入滅。
高村さんは、
「高野山開創当時の数ヵ月の滞在時間を加えても、空海が高野の地に暮らしたのはせいぜい3、4年ではなかったか。」
と推理しているが、空海と高野山の関わりは意外に短かったのだ。
それでかどうか、東寺に参ると空海を感じ、高野山では弘法大師を感じる。
身は高野 心は東寺に おさめおく